『シルビアのいる街で』の試写会に行ってきました。
日仏学院会員か、日仏の映画館ポイントカードを持っていれば
試写に参加できるということ。
平日だし、余裕かな・・・と思っていたんだけれども
チケット引き換え30分以上前から30人以上の列が出来ているという情報が入り
飯田橋駅からダッシュで向かう。
最後、日仏の坂を上りきった頃には汗が滝のように流れ、列に並ぶのが非常に恥ずかしい・・・
マスコミ用試写も兼ねているので、
キャパ108人の会場で、5分もしない間にチケット引き換え完了。
キャンセル待ちにも列が出来ていた。
2008年のTIFFにて上映されたものの、行くことが出来ずに悔しい思いをした私。
ネットでの反響を見ては、うずうずしていたのです。
尊敬する矢田部さんもブログでご紹介されていて(去年だけど)、益々うずうず度が上昇して落ち着かない。
(矢田部さん入院中とのことで・・・早く良くなりますように!)
念願の初鑑賞。
ホセ・ルイス・ゲリン監督のティーチインもあるということで
最前列の席を確保。
ストーリー
とあるカフェ、客を観察してはスケッチをしている画家志望の青年(グザヴィエ・ラフィット)がいた。ガラス越しに一人の女性(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)を見つけハッとした彼は、彼女が店を出るとその後を追う。彼女を追って市電に乗り込んだ彼は、あるバーで数年前に出会ったシルビアではないかと声を掛けるが……。
監督・脚本: ホセ・ルイス・ゲリン
キャスト:グザヴィエ・ラフィット、ピラール・ロペス・デ・アジャラ、ターニア・ツィシー他
以下、ネタバレ含みます。
感想はティーチインの模様に交えて・・・
ティーチインのお相手は佐向大監督。
「暴力的なほど強い愛情の表現」
と感想を仰っていた。
確かに。強烈なアプローチに驚愕。
監督自身の実体験を基に、フランスのロマン派詩人ジェラール・ド・ネルヴァルの「シルヴィー」からヒントを得て製作されたという本作。
実体験・・・ということは監督、ストー(以下略)
にしてはグザヴィエ・ラフィットのようなイケメンを採用するあたり、(以下略)
「上映後に観客の皆さんとお話しするのは本意でない」
と監督。
それもそのはず、「情報を取り去る」ということに徹底しているから。
(フランス語でもお話されていたけど、“enlever”を“エンレヴェ”って発音されてたところがちょっと気になり。)
できるだけ、その情報をお話になりたくないご様子。
とにかく謎で溢れた作品。
「白紙の状態の映画を作る。色をつけるのは観客。」
このお言葉にはぐっときた。
妄想族所属の私にとっては嬉しいのです。
フランス映画を好きな所以が、この作品に詰まっているのです。
隣に座ってたムッシュがところどころ睡眠と覚醒の間を彷徨っていらっしゃったように
退屈だって思えば退屈。賛否両論あるかと。
ホセ監督作品のDVDを持ってこられ、熱い思いを伝えるムッシュがいらっしゃいました。
これには監督も喜びの表情を浮かべる。
そのムッシュは、監督の作品は“その場所に行ってみたい”と思う作品ばかりだ、と言うことを仰っていましたが
そのことに対しては
「観光客としてではなく、旅人の視点で敏感に街を見ている」とのこと。
撮影の前には街の分析をする、とも。
過去の出来事、過去が培った現在・・・
監督から「弁証法」っていう単語が出てきたときにはちょっとあたふた。
(嗚呼、哲学にもっと詳しければこういうときの理解が違うのに!)
ストラスブールという街選びに関しては
「路面電車が欲しかった」と。
観光名所など、ストラスブールを象徴する建物は一切映らない。
店員との会話はフランス語だけれども、
ときどき強調するようにして入ってくるのはロシア語やドイツ語。
看板もなければ、交通量もなく、移動手段は自転車&路面電車。
言われなければ、舞台がどこなのか皆目検討もつかない。
「お金がないからセットで撮れないんだ」とも仰ってましたが。
撮影時の季節も、またいい。
夏という季節がゆえに女性は肌の露出を多くし、
スクリーンに映し出される女性たちが官能的に見えてくる。
マルシェ・ド・ノエルの季節に撮影されていたら、どこの街かは検討がつくしね。
非常に男性的な視線だっていうのがよくわかる撮り方。
女を見るときの視線って、ああいう感じなんだろうな、と。
フランス語を習っているのであろう女性から、
フランス語でホセ監督に質問が飛ぶ。
「監督にとっての美しさとはなんでしょうか」
しかも監督からの回答もフランス語でくださいとな。
まあ、、、、
そこで急遽坂本安美さんフォロー。すごい!
フランス語で会話を交わしたい気持ちはよくわかります。
ただ、いくら日仏学院での上映とは言え、素晴らしいスペイン語通訳・比嘉さんがいらっしゃっているのに!
・・・と、ブーブー思いましたが
結果監督が色々喋ってくれたから、いっか(単純)。
リュミエールの初期の“街を描いた”作品が
監督のルーツなのだな、という(自分なりの)解釈。
シルビアという名前については、「シルビアは音です」、と監督。
「Dans la ville de Sylvia」という響き。
これが「Charlotte」だったら成立しなかったでしょうね、
と笑いながら話すもなるほど納得。
台詞もほとんどない、主人公の男の名前すらわからない。
(“シルビア”は本作で出てくる唯一の人名なのだ)
そんな中で男が、決して力強くはないけれども大声で放つ台詞
「シルヴィ!」が耳に残る。
(フランス人名では ×シルビア ○シルヴィ)
賑々しい街から一歩離れた路地裏で響く。
「nouveau criminal」って新聞が最後のシーンに出てきたのですが・・・
という質問には
「それは御想像にお任せしますよ。
シルヴィアは事件の犠牲者になっているのかもしれない」
と、また曖昧なお答え。
私は逆に容疑者なんじゃ、とも思いましたが
そしたら主人公の男、新聞もTVも見なさすぎだ、
いや、でもだいぶ現実離れした不思議男子だし・・・
と、妄想は駆け巡るわけで。
たくさんのシネフィルに囲まれての鑑賞は、
やっぱり強烈に刺激を受けます。
そしてまた幸せな感じで帰路につくのでした。
『シルビアのいる街で』は8月にシアター・イメージフォーラムにて公開。
ホセ・ルイス・ゲリン監督の作品、もっと観たいなあ
という結論。
シルビアのいる街で
ストラスブールがじっくりと描かれていることに興味をひかれて、『シルビアのいる街で』を見に、渋谷のイメージフォーラムに行ってきました。
この映画館は、今年の初めに『倫敦から来た男』を見て以来のことです。
(1)この映画のストーリーといったら、数行で済ますことができるでしょう。
すなわち、ドイツとの国境に近いストラスブールを訪れた画家志望の青年(グザヴィエ・ラフィット)が、演劇学校前のカフェに座りながら、6年前にこの街で見かけたシルビアを探すうち、それらしい女性(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)が目にとまり、ずっと彼女の後を尾行するも結局人違いとわかります、ですが、その青年は翌日から再び同じカフェで人探しを続ける、というものです。
会話のシーンといったら、自分が尾行した女性と青年との簡単なやり取りだけで、あとはストラスブールの中心街らしきところを、青年と女性が歩きまわるシーンばかりなのです。
と言って、この作品は、ストラスブールの観光案内映画ではありません。
大聖堂とか美術館、欧州議会などといった名所には目もくれず、ヨーロッパではごく普通と思われる都市の風景が描かれます。
ですが、日本の都市の風景とはまるで異なっており、両側の時代を経た石造りの重厚な建物の間を、最新のトラム(窓が広く取られていて、またバリアフリーで床がかなり低い位置にあります)が走ったりしています。
女性は、そうした表通りから脇道に逸れ、裏通りを、そして再び表通りを、足早にどんどん歩いていきます。
青年の方も後を追いかけるので精一杯、彼女がトラムに乗ったためにようやく追い付いて、青年は彼女に話しかけます。
しかし、彼女はシルビアという名前ではなく、単に1年前この街にやってきたにすぎないとの話。加えて、尾行されているのはずっとわかっていて、彼を撒く為に路地に入っていったり、店に立ち寄ったりしたとのこと。あいにくとその店は閉店していたためにうまくいかなかったようですが。
これには彼は驚き、「What a disaster(英語字幕)」と言いながら謝罪します。
たったこれだけのことを描いている作品ながら、1時間半近い映画を最後まで退屈せずに見てしまうのですから、観客として実に不思議の感に打たれます。
たぶん、その一つの要素は、登場する女性が皆若くて美人ばかりというこ