レオス・カラックス@シネ・ディマンシュ フランス映画研究

レオス・カラックス来日!!!

廣瀬純氏(広島カープじゃないよ)@アンスティチュ・フランセでの授業にカラックスが登場する!!
っていうんで、参加してきました。
急遽決まったらしく告知も殆どなかったので(ホームページにも載ってなかったよ…)当日でも空席あり。
定員50名なのにかなり残席あったのでは?
同日にユーロスペースで新作『ホーリー・モーターズ』のトークショー付き先行上映があったので、
そちらのみに人が流れたと思われ。
ユーロスペースでは朝10時からチケット配布開始、8時半に並んだ方で完売状態だったらしいです。
あの如何わしい宿泊場の通りに、早朝から長蛇の列…

そちらでのチケット入手はJUNさんにお願いして(JUNさんホントにありがとうございます!)
会場スカスカのアンスティチュで授業に参加したのであります。

この授業、映画を一本見て、その作品について参加者でディベートをする、という…
ディベート苦手な私にはかなりハードル高そうでしたし
ホントにこんな状態のところにカラックスが来るのだろうかと不安でしたが、、、

鑑賞作品はルノワールの『黄金の馬車』。

黄金の馬車 デラックス版 [DVD]

廣瀬氏の解説からメモ。

■『黄金の馬車』と『ホーリー・モーターズ』には様々な共通点がある
・タイトル
 黄金の馬車=The Golden Coach(Le Carrosse d’or)
 Holy Motors=神聖な車
・「spectacle」「théâtre」と「vie」(人生)をなぞらえている
 演劇の只中で自分の人生を生きると言うこと
・死に対する意識
 舞台の上では死なない⇒死なき生は、それでも生なのか
 『ホーリー・モーターズ』では逆説的に「死に対して抵抗」している
 『黄金の馬車』では演劇を「死を奪われた場所」として、「生」を幽閉した世界としている
 本当の意味での人生は、「演劇の外」にあるのではないか?
・演劇/舞台 と 生/死 そして、車(馬車)。
 車(馬車)を「人間と同盟関係を結んでいる」ものとして描いている
 「車」に「死」の可能性を帰す
 ⇒減価償却出来ない、そのことにより何かが起こるのではないかということ

…ふむふむ、、、とメモしつつも、私が普段受講している映画クラスより
遥かに日本語レベルが高いことは確かであります…

映画を観賞後、ロビーに降りたらカラックスがカフェにいた!

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再び映画館に戻り、授業再開。
「監督は最初から参加されたくないようで…」

ええ!!??

で、作品についての討論会開始です。

・馬車という移動手段があるのに、外に出ない。
・抜け出る隙間がなく、「お前の人生は(舞台上の)2時間でしかない」という台詞からも息苦しい印象。

という感想について、廣瀬氏
・移動手段があるのにしないが、「見えない外の世界」がある。
 外には戦争=死と隣り合わせの世界がある
・原作はプロスペル・メリメであるが、ルノワールはより実話の方に向かった
 舞台はリマ(ペルー)であり、時代は1761~1776の間
 この4年後にトゥパク・アマル2世戦争がペルーで起こるのだが
 作品ではその緊張感を見せていない
 「お前の人生は…」という台詞もあるが、毎日2時間演じる(生きる)としてもたった4年しか無い
・ジャン・グレミヨン『混血児ダイナ』も同様に社会的階層を横断した作品
 女優、貴族、軍人…と平等に登場人物を並列している『黄金の馬車』とともに見るべき

…と、途中からさりげなーくカラックスが登場。
特に挨拶もせず、エスパスイマージュの舞台に腰掛け、カフェで飲んでいたカップをそのまま持って来て飲んでいる。
(どうぞ、続けて という仕草で)学生(このプログラムに参加している方々)と廣瀬氏とのやりとりに耳を傾ける。

き、緊張…

えーっと、この辺りからカラックスに見入ってしまって
お二人目のご意見、メモしたのにミミズ字で全然読めないのです…
「ヒエラルキー」「映画的コンテクスト」「ネオレアリズモ」がさっぱりつながらず…

煙草を指に挟んだまま話すカラックス氏
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そしてカラックスへ質問

んが、
ルノワールの作品は『黄金の馬車』以外は全て見ているのだが…
とのことで…

共通点を見いだしたのに、『黄金の馬車』見ていないとは!

■ルノワール『黄金の馬車』と『ホーリー・モーターズ』について
・自分は映画を見始めた頃とほぼ同時に、映画を作り始めた
 なので2本目を作り終えた後、段々と映画を見なくなり
 今では少ししか映画を見ない人間になってしまった。
・ルノワールの(『黄金の馬車』以外の)全作品を見たと言ったが、それはもう20~30年前の話。
 ルノワール作品で一番見たのは『ゲームの規則』。
 これも若干コメディア・デラルテと関係があるかもしれない。
 最近再鑑賞したルノワール作品は『コルドリエ博士の遺言』。
 前作『メルド!』を作る際に『コルドリエ博士の遺言』のジャン=ルイ・バローを見たいと思ったから。
 この作品が面白いと思ったのは、演劇と映画、それぞれの境界が交わっていること。
・(『黄金の馬車』は舞台の外で起きていること=戦争があることに対して)
 『ホーリー・モーターズ』は画面の中だけの世界。
 作りたかったのはSFの世界。(サイエンスよりフィクションより)
 人間と動物と機械が共存している。それが支配しているのはバーチャルの世界だということ。
 なのでスクリーンの内と外の問題はこの作品では起きていない。すべて舞台上で起きている。
 この世界はいつも「見えないカメラ」で撮影されている。

■「映画は発明された芸術である」
・映画作家はかつて映画の観客であった。映画を見ないで映画の作り手になった人間はいない。
 観客から作り手に飛躍するということが、他の芸術と比べて一番大きなものではないか。
 他の芸術は自発的なもの。
 作り手になると、観客として再び同じように映画を観ることはできない。
 映画に出会うことはとてもすごい体験だ。
 「自分のために映画は作られたのではないか」と思うこともある。
 別の世界の見方を与えてくれた映画に、感謝している

続いてQ&Aの時間が設けられました。

■ カラックス監督にとって「観客」とは?
『ホーリー・モーターズ』には観客を正面から映すシーンがある。
その観客は生きているか死んでいるのかわからない。
観客について考えるのは非常に難しいことだ。
よく「誰のために映画を撮っているのか」と聞かれるのだが
いつも答えに困る。
しかし今では「もう亡くなった人たちのために」と考えている
自分の中にいる死者たち、墓場をいっぱいにしている死者たちのために。
しかし自分の作品を観客に見せるたびにいつも”かかってこない電話“を待っている。
「いい作品だった」と。決してかかってくることはないが。
だから神のために映画を作っている、と言ってもいいのかもしれないがそんな答えは存在しない。

自分の作品が、他の人々の中で何かを見出すことを望んでいる。
自分が生まれる前の作品を見て、自分自身が映画を作るようになったように。
それらの作品は自分のために作られた作品であったとも思う。
だから同じようなことが自分の作品でできればいい。

その後、フランス語でご自身の思いの丈を伝える方もいらっしゃいました。
「どうぞご自分で日本語に訳してください」と、通訳の福崎さん。。。

坂本安美さんからカラックスへ質問。「女性と映画について」

女性のために映画を作っているといってもいい。
観客は「孤児」、闇の中にいる。
孤児にとって、女性は到達しがたい存在。
映画の背景には男性がいて機械があり、そして女性がいる。
映画は男性が女性を撮影するものである。
今日では女性監督がたくさんいるが、
当時自分が好んだ映画は、男性がひとりの女性を撮影するものであった。
カメラを通して女性との関係を築くことができるのだ。
自分の初期の4作品はすべて『ボーイ・ミーツ・ガール』というタイトルでもいいだろう。

ロビーでサインを求めるファンに「先に煙草を吸わせてくれ」とカラックス。
喫煙所が即席サイン会場となったわけで

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流れで私もいただきました!家宝がまたひとつ増えました!

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…そして興奮冷めやらぬまま、ユーロスペースへ。